会員の自慢話 第5話 『大道との出会い』




 今回の第五話は『大道との出会い』と題して、稲沢市にお住まいの島田義春さんにご執筆いただきました。

 私が刀に興味を持ったのはもうずいぶん遠い昔の話である。その頃私の家にもさほど立派と思えない三振りの日本刀が在った。
 どうして私の家に在ったかは、さだかでないが、父親の留守の日を見つけては刀を持ち出し、裏の竹林で竹を切り竹馬を作って夢中でよく遊んだものだった。今思うとその刀は恐ろしく良く竹が切れた。今でも昨日の事のようにハッキリと記憶に残っている。終戦直後、確か私が小学四年生の頃だったと思うがマッカーサー司令部が日本刀は凶器と見なし、アメリカ軍の刀狩の嵐が吹荒れた。私の町でも刀狩が始まり、刀を隠しているのが見つかれば逮捕連行されるなど色々噂が飛び交った。我が家に在った刀も警察に提出する破目になり、忙しい父に代わり嫌々ながら刀を持って行ったものであった。
 何せあの頃は鬼より怖いマッカーサー司令部の命令だったので誰も提出を拒む訳にはいかなかった。中には隠し通した家もあった。実は、我が家の三振りの刀の内一振りを父に嘘をつき私だけが知っている川の深みに釣り糸に縛り付けて沈め隠した。後日、刀を引き上げて見たら一面赤錆に覆われ錆が刀身に食い込み、見るも無残な姿になり果て悔しい思いをしたのが昨日の事のように思い出される。その事が一層刀が好きになった事始かも知れない。後年社会に出て働き出してから、縁あって念願の日本刀が我が家に来た日のことは何年経っても忘れられない。何しろ長年の夢が叶ったので一夜刀を抱いて寝たものであった。
 私が世界に冠たる美術品の日本刀に魅せられ、そのすばらしさに触れれば触れるほど、日本刀の魅力のとりこになり本格的に日本刀を知り学びたいという渇望にかられた。友から財団法人日本美術刀剣保存協会名古屋支部で毎月一回日本刀の鑑定鑑賞の勉強会があることを知り会に入会した。以来毎月休むことなく楽しみに出かけてくるようになり、月日が経つのは早いものですでに四十年余りたった。今から思うと日本刀に出逢った事によりどれだけ私の人生が豊かになったか計り知れないものである。趣味の世界は単に刀剣の世界だけではないが、趣味を中心にどんな方とも隔てなく社会的な地位など関係なく交際願えるのもありがたい限りである。
 ここに出品の脇差、陸奥守大道は縁あって私の手元に至ってより久しいが「アバタもエクボ」益々愛着止まない好きな刀の一振りである。

 脇差  銘 陸奥守大道
 天正十八年二月日
 室町期、約四百年前の 美濃刀工、関住
   兼道 → 大道
 陸奥守大道の冠名は天正元年九月より始まる。
陸奥守の由来は名剣を造り天子「正親天皇」に献上しその功績により下賜されたものである。
天正十九年二月より後、美濃より京の西ノ洞寿川へ移住す。四子を引き連れて。
 長男 伊賀守 金道
 次男 來 金道
 三男 丹波守 吉道
 四男 越中守 正俊
大道の代表的な弟子に
   伊豆守大道
   丹後守大道
がいる。大道の四人の子供たちは父親以上の名刀工揃いで愛刀家なら誰しも一度は持ってみたい名刀である。

 現在今日に至るまで数多くの有名な名刀を世に残している。子孫が数代続き、弟子たちも数派に別れて繁栄した。
 本刀は脇差というよりか冠落しの寸伸び短刀である。「刀長一尺四分半(34.5cm)反り一分(0.9cm)」「刃文、のたれ調に尖り心の互目、匂口しまり心明るく冴える」「帽子は三品(みしな)帽子で大道の流れを汲む刀工の見所である。」「地鉄は小板目よくつみ板目が柾目に流れる。古刀の地鉄というよりかつぎに来る新しき時代、新刀期の地鉄を呈している」「茎の三冗も各時々の持主に常に身近に在りて愛され、拵えを新調してもらい可愛がられたかを物語っている。姿も原形を止め健全さもまた哀しい限りである。 いにしえの人々が大切に今日に伝え残してくれた。世界に誇れる日本文化財を永久に八千代に後の世の人たちに伝え残していきたいものである。
名古屋支部 島田 義春
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